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【特別寄稿】テキスタイルの歴史 〜温故知新〜(第2回)

「テキスタイルの歴史 ~温故知新~(第1回)」では1960年代後半から1970年代前半までのテキスタイルの変遷を辿ってきた。

トラッドながら遊び心をもったスタイルの登場、そしてサイケデリック柄の流行。

しかし、曲線的で複雑な模様をテキスタイルで表現することの限界についても知ることができた。

このような状況において、次の10年間でテキスタイルはどのように発展を続けてきたのか。ファッションの流行はどのように変化してきたのか。歴史の続きを追うべく、私は再び大恒株式会社の大村代表の元を訪れた。

流行はアメリカと共に。

捺染技術の発達を背景に、1970年代になるとプリント技法によって複雑な模様を写したテキスタイルが、トップブランドに続々と採用されるようになる。

プリント技術の進化は止まらない。1970年代の後期になると、いよいよ布帛のみならず、カットソーへのプリントも広く普及するようになったそうだ。

プリントされたのは曲線的な模様ばかりではない。これまで織りで表現することが当然とされたトラッドなチェック柄でさえ、プリントで表現できるようになったのだ。


私は疑問を抱いていた。


捺染技術が発達したとはいえ、織りとプリントでは明らかに表情や質感が異なる。

ファッションに格式や伝統を求めるイギリスやフランスの人々が、例えばプリントされたチェック柄やエンブレムを認めようとは(失礼ながら)とても思えないのだ。

しかし、ヨーロッパのファッションブランドと生活者はそれを受け入れはじめた。

パリ発、オートクチュール・コレクションのページをめくれば、プリント生地を用いた衣装が次から次に登場するではないか。それは一体なぜか?


私の表情からすべてを察した大村代表が口を開く。


「国際情勢の変化が大きく関係していると思います。第二次大戦後、アメリカはGDPが急成長して国力が高まりました。

その一方でヨーロッパは頭打ちです。国力はカルチャーにも影響力を与えます。

アメリカ人の自由(liverty)で気楽(easy)な気質が、ヨーロッパのファッションに大きな影響を与えました。端的にまとめれば、『流行の発信源がヨーロッパからアメリカに移った』ということです」。

なるほど、終戦から30年を迎えた1970年後期ともなれば至極当然な変化だったのかもしれない。私が抱いていた疑問は、スッと溶けた。

もっと自由に、もっと個性的に。

ところで、この時代に発達したのは捺染技術だけではない。

当時の織機も進化についても話を聞くことができた。ハードが進歩することにより表現の幅が広がったことで、ソフトを生み出すデザイナーは、一層デザインを追求するようになった。

また、自由を重んじるアメリカ的な気質は、ファッションにも新しい価値とバリエーションを生み出している。

ヒッピー文化から生まれたサイケデリック柄、ボヘミア人の民族衣装に着眼したボヘミアン調、さらには着物や帯といった日本文化を取り入れたファッションも注目されるようになった。

当時の資料を見ても、一点として重なることがない個性的な衣装が溢れている。

組織や一族ごとに統一された標準服(衣装)を身に纏うことを求められた時代は過ぎ、自分の好きな服を、自由に着ることができる時代になったのだ。

1970年代は、ファッションの多国籍化によってKANSAI YAMAMOTO(山本寛斎)やKENZO(高田賢三)ら、日本人ファッションデザイナーが世界に羽ばたいた時代でもあると大村代表は回顧する。

やがて80年代のマンションアパレル、DCブランドの隆盛につながっていくことになるそうだが、これも『自由の波』の恩恵だと言えよう。

アメリカの国力増大、捺染技術の発展、織機の進化によって自由と個性が生まれた。それが1970年代後半~80年代前半のテキスタイルの特徴だ。私はそう結論づけたのだった。

2019.03.27